Columu 61

ギターという規格


フォトジェニック研究所 所長のときたです(笑)

今・・・フェルナンデスのストラト系のギターをいぢってます 。アームにFRT−5 Proというのが付いています。FRTについていろいろ知りたいことがあるので、研究材料になっています。 いつものように、フォトジェニックは見ていますが(汗)。

まあ、あいかわらずギターについて書かれているものを、いろいろなところで見ています。ネットには様々な情報がありますから。どれが真実かはわかりませんが「とりあえず読む」、この姿勢でがんばってます。思いのほか「ギター小説」の評判がよかったので、続きを考えてます(笑)。おもいつきで書いたので、続編はいつになるかはわかりません。気長にお待ちください。

 

私のギターは、圧倒的に「フェンダー系」です。言わなくてもわかりますよね。しかも今はUSAがありません。どっかに行っちゃいました(笑)。私は偶然にも「お気に入りのギター」を見つけて、幸せだと思います。そしてその喜びの度合いについては、フォトジェニックでもBBでも変わりません。値段イコールではないって事です。

よく「オールド」を引き合いに出してますが、「オールド」が存在することを、否定しているわけではありません。ただ、その「数の少ないオールド」に群がる気はないというだけです。テレキャスターで300万円は「高い」と感じますが、プリウス1台って考えたら・・・たいしたことありません。レクサスは買えませんね(笑)。でもフォトジェニックは、300本買えます(爆)。

前から私は「木」については、何も言ってません。なぜでしょう?木は50年前と今と、同じものが供給されているのでしょうか?きっと、同じものもあるんでしょうね。どっかのメーカーは200年前の木、っていってますから。でも、オールドは200年前の木ではできてはいません。では、オールドとまったく同じギターは、作れたんでしょうか?とっても微妙ですよね。同じに作っているはずなのに、同じに作れない。いや、同じにできているのかもしれませんが、評価されないってことでしょうか。「同じに作っている」っていうことは、その先には「同じ物が出来上がる」しか道はありません。最高の完成度をもってして、「オリジナルと同じ」「オールドと同じ」、ですよね。手で作ろうが機械で作ろうが、実際には「コピー」を作っているってことです。ギブソンもフェンダーも、オービルやレオが作ったものと「同じ規格」で作り続けています。自分達で自分自身のコピーを作っています。これは、国産のコピー・モデルがやってることと、どこが違うのでしょうか?
 

その昔、ギブソンやフェンダーのコピー・モデルを、日本も一生懸命作ってました。遠い島国の黄色いサルなんかに、ギブソンやフェンダーを作れるわけがない。アメリカ人はきっとそう思ってましたよね。それにもめげず、日本はがんばってギターを作り続けました。それって・・・今、日本が、アジア圏の人に向かって吐いてる言葉と、同じじゃないですか?
 

私の大好きなフォトラトは(笑)、ストラトキャスターに良く似ています。基本的なところは、ストラトを受け継いでいます。でも、木材が違うし、ネックなんかも全然違います。とするとこれは、「コピー」じゃないですよね?。本来の純粋なコピー・モデルを作っているのはフェンダーや日本のメーカーであって、フォトラトは「ストラトのようなギター」です。「一見、ストラトに見えるギター」です。ソリッド・ウッドっていう、わけのわからない木でできています。しかしそれは、このギターが「ギター失格」であるという決め手にはなりません。ひょっとした10年後20年後、この木がギターのスタンダードになってるかもしれません。従来の規格からはずれているからといって、それは「ダメなもの」なんでしょうか?
 

前から言ってるように「初心者用の〜」なんて、この世にはないと思ってます。それは「安いモノ」とイコールっていうだけですよね。フォトラトは定価2万円、実売1万円。他のギターからすれば、とんでもなく安いです。ではあなたは、100円ショップ−いわゆる百均を使わないんですか?百均では、従来100円では買えなかったものが、たくさん並んでます。百均で売ってるものは、初心者用?ちょっとぐらい出来が悪くても、使ってませんか?買ってませんか?便利じゃないですか?
 

従来のメーカー、フェンダーやギブソンは、紆余曲折はあるにしろ、ずっと同じギターを作ってます。でも、評価されているのは「オールド」です。おかしくないですか?ということは、フェンダーやギブソンが作っているのは、やっぱり「コピー」?。純粋にオリジナルのコピーと言えるでしょう。はて?それは、フェンダー・ジャパンがやってることと同じですよね?グレコやフェルナンデスがやってたことと同じですよね?では、フォトジェニックとどこが違うんでしょう?
 

私が子供の頃、レスポールは36〜38万円ぐらいでした。それを島国の黄色いサルは、6〜8万円で作りました。アメリカ人からは、どう見えたんでしょうねえ〜。今アジア圏から作られてくるモノは1〜2万円。日本製だと6〜8万円。まったく同一の条件ですよね。ボディはマホガニーじゃなきゃいけない、アッシュじゃなきゃいけない。それはただ単に基準が「オールド」だからですよね。みんなが「聞きなれている音のギター」ってことですよね。

今ここに「ストラトキャスター」があります。それを弾くことになります。当然あなたは「ストラトらしい音」「いままで聞いてきたストラトの音」又は「誰かの音」を出そうとします。はたしてこれは「良い音を出す努力」「自分の音を作る努力」しいては「個性的な音を出す努力」なんでしょうか?いいえ、違いますね。どんどん、みんなと同じ音−無個性な音に向かってひた走ってるんです。

「良い音がしない」

誰と較べて?

何と較べて?

あなたが過去に経験してきたストラトに較べて−ですよね。そこにはオリジナリティ−個性的な自分の音などありません。あなたが一生懸命めざしているのは、みんなと同じ音=無個性な音に向かっているだけです。

ところが廉価版のギターは「その音」がでません。「ストラトに似ている」だけで、いくつかのところが従来のギターの規格から外れています。一生懸命、「無個性な音」−「みんなと同じ音」に向かっている人にとってそれは、「許容外の音」=「悪い音」と認識されます。規格から外れたフォトラトは、「個性的な音」であるがゆえに「ダメな音」という烙印を押されます。1つのモノが出来上がって、人々に認められるためには時間がかかります。その認められるまでの間は、「ダメなもの」と判断されます。しかしある時、「新しい使い方」が見つかると、人々の見かたは180度変わります。「規格から外れた個性的なダメなモノ」が一変して「独創的なモノ」と表現されるようになります。

それって・・・最初に「レスポール」や「テレキャスター」が受けた仕打ちと同じじゃないですか?

 

フォトラトは総じて「仕上げ」が雑です。「手抜き」もあります。

なぜでしょう?

安いから、雑なんでしょうか?

いいえ、違いますね。これはアジア圏の人が、「ギターを知らないから」です。「ギターが弾けないから」です。「ギターがわからないから」です。ギターが「なんなのかわからない人」が作っているんだから・・・しかたないですよね。
アジア圏はまだ「高度成長期」の入り口まできていません。今はまだ訳もわからず、大工場でモノを作っています。その大半の人は、「自分が何を作っているのか」すらわかっていないと思います。ただ単に「労働」=「賃金」です。「より良いものを作ろう!」というところまでは、たどりついていません。でもそれで、「このギターの精度」ですよ。なにもわからず作らされているのに、すでに「ギターらしきもの」にはなっています。これって昭和20年頃の、テスコやグヤが作っていたギターより、遥かにデキがよくありませんか?いや、ビザール・ギターは可愛い(笑)し、それはそれでいいんですよ。このアジア圏の人達が「より良いモノを作ろう!」なんて考え始めたら・・・少なくとも資源と人間は、日本より遥かに多いですからね。もし万が一、中国で「フォトラト」がスタンダードなものになってしまったら、日本のギター業界は、吹っ飛ぶでしょうね。より多くの人から支持されるものが、スタンダードです。だってアジア圏の人にとって、廉価版ギターこそが、「ギター」なんですから。
 

オールドのゴールド・トップのスタンダードがあります。カスタムがあります。ブラック・ビューティーがあります。ではそれ以降、多くの人に支持されたモデルはあったんでしょうか?

ストラトのオールドのスモール・ヘッドがあります。ラージ・ヘッドがあります。ではそれ以降、多くの人に支持されたモデルはあったんでしょうか?

レスポールは、現在もあります。ストラトは現在もあります。どちらも本家が製造を続けています。でも、オールドを超えて支持されるようなギターが作れたんでしょうか?レストランに例えると、新しく定番メニューに加わる−そんなギターが出てきたんでしょうか?出てくるワケないですよね。マホガニーがいい、アッシュがいい、アルダーはダメ、バスウッドはだめ。そんなことばっかり、みんな60年間言い続けてるんですから。

ポールリードスミスがいい。ミュージックマンがいい。ではポールリードスミスじゃなきゃだめな曲ってなんですか?ミュージックマンじゃなきゃだめな曲ってなんですか?。

ツェッペリンをやるならカスタムが欲しい。パープルをやるならラージヘッドが欲しい。じゃあ、ポールリードスミスで、なに演ります?どんなに高くていいギターかはわかりませんが、その点においての重要性は、フォトラトと大差ありません。少なくとも私の中では、まだその程度の評価です。だから私の「欲しいものリスト」には、入ってません(笑)。みんなが「良いギターだ」と騒いでるだけで、何かの曲を奏でる必要性が、まだ感じられません。ポールリードスミスで弾きたい曲って、なんですか?・・・サンタナ?(爆)。

 

出た当初、みんなにメソクソに言われたのに、今現在は市民権を得たモノ。なんだかんだ言われながらも、結局スタンダードになった「フロイドローズ」。進化しながらも、理にかなったものです。

逆にみんなから大絶賛され受け入れられているのに、どう見ても後退してるようにしか思えないもの。「GOTOHのペグ」と「ウィルキンソンのアーム」。遊びを無視した正確さは、クルーソンに勝るものなのでしょうか?結局はベタづけで、ダウン専用になったアームは、シンクロナイズド・トレモロより進化したものなのでしょうか?

 

陸上競技に100m走というのがあります。なぜ、100mになったんでしょう?いろいろな理由があると思います。スタートの技術を争う。トップ・スピードを競う。いろいろな理由があって100m走になったはずです。でも、まって下さい。100m走の存在意義は「タイム」−走る時間を争う競技です。そこでなぜ100mなのか、と異議を挟む人はいません。100m走の存在理由を言い争っても、何にも意味はありません。
また200m走があります。これもなぜ200mなんでしょう?やはりどこかに理由付けはあるはずです。実際にトップ・スピードで駆け抜けたとき、半分の100mでのタイムを考えると、100m走より速いです。19秒で走れば100mは9.5秒ですから。だからといって100m走よりすごいか、といわれればそうではありませんね。200m走は、あくまで200m走です。同じ「走る」という競技。どっちがすごくて、どっちがダメということはありません。
ではなぜ、50m走、150m走ではダメなんでしょう?なぜ、競技にならないんでしょう?あたりまえですよね。100m走・200m走というのは「規格」です。その存在意義も理由も関係ありません。100m走・200m走という競技自体が「タイム計るための規格」なんですから。でもこれって、レスポールとストラトに似てません?

 

50m走はZO−3でしょうか。ギターではあるかもしれませんが、誰も本気では考えませんよね。たしかに子供の競技にはありますが、あくまで子供の競技です。では150m走は・・・っていうと、もうお判りですよね。これがポールリードスミスにあたります。「両方のいいとこ取り」−そう言って絶賛されていますが、どちらの規格からも外れています。150mを走ることによって出したタイムを、100m走・200m走に換算すると、どちらよりも早いのかもしれません。でも、いくら150mを速く走ることができてもそれは・・・「規格外」ですね。スゴイ!とは言われるかもしれませんが、あくまでも150m走で速いだけ。実際には、100m走・200m走で速くなければ、そのタイムに意味はありません。
 

もしかするといつか、50m走・150m走という競技が、正式種目になることがあるのかもしれません。でも、今はありません。なぜでしょう?そう、「規格外」だからですね。ポールリードスミスが150m走で規格外とすれば、私には同じようにフォトラトも規格外に見えます。高い・安いの差こそあれ、同じ規格外のものです。「精巧に出来ている」−「雑だ」。そんなものは関係ありません。1億円出して作ったティッシュと10円のティッシュ。金額的な価値の差はありますが、できることは一緒です。鼻をかんで丸めてしまえば、その違いなどもうわかりません。金額の差を知ってる人はその差について語るかもしれませんが、何も知らない人にとってはただのゴミです。1億円のティッシュは、柔らかすぎて鼻がかみにくく、10円のティッシュはゴワゴワしてるけど鼻はかみやすい。そんなことが有り得るかもしれません。ただそれは、結果論ですね。でも、金額も結果論です。ようは「使いやすいかどうか」です。高いから偉くて、安いからダメって言うのは、先に結果論ありき、です。そこを争ってもしかたないですよね。だってもともと、どちらも「規格外」なんですから。
 

ギターというのは、総合芸術です。たったあれしか部品がありませんが、1つ変えると違う答えが出ることがあります。また、同じマホガニーで作ったレスポールとストラトは、まったく違ったモノになります。あたりまえですよね。もともと違うものになるように、「規格が定められているモノ」なんですから。普通、ストラトをマホガニーでは作りません。それ自体が、すでに「規格外」なんですね。「ストラトらしい音」をマホガニーで作るのは難しいっていうことです。でも「ストラトらしい音」にしていけばしていくほど、元の規格、先に述べた無個性な音に向かっていくんです。難しいですねえ〜。禅問答のようです。

200m走は、なぜまっすぐに走らないんでしょう?100m走のようにまっすぐ走ったほうが、いいような気もするんですが。
やり投げと砲丸投げの違いは、何でしょう?やりを砲丸と同じ重さにして競ってはいけないんでしょうか?
走り高跳びと棒高飛び。高く飛べるのは、棒高飛び。棒高跳びのほうが偉い?(笑)
そんなことはありませんよね。すべては「規格」の中で競うものです。他の何とも比較できないようにするために決まった規格なんですよね。そしてマラソン以外、すべては陸上競技場−1つの競技場内で争うのが、陸上競技です。それすら規格−決め事なんですね。それが「陸上競技」というものです。
 

こんなところまで、読み続けてくれる女の子はいるかな?女の子にとって、ギブソンのネックは太いよね?弾きづらい?。でもいいんです。その手の小さいことが、「個性」なんです。手の大きい人と同じように弾けない。それすら、個性です。ではそんな女の子が、細いネックを作って貰ったとしましょう。大きい手の人にとってのレスポールのネックと、同じ割合にして作ったとします。結果、弾きやすくなるでしょう。でも、ちょっと考えて見て下さい。手とネックの割合が普通のレスポールと同じになったら、その女の子は普通のレスポールの人と同じ土俵で争わなければいけません。もう、ネックが太いことは、いい訳にはなりません。そしてもう1つ、その女の子の手にあわせて作ったものは、もう「規格外」です。普通のレスポールと同じような音が出なくても、文句はいえません。でも、手とネックの割合を同じしたということは、規格外なはずなのに、無個性なほうに走っていくということです。せっかく太いネックにちいさな手という「個性」があったのに、すべてを捨てて、いや、どう考えても不利な条件を背負って、無個性な、みんなと同じ音の方に向かうんです。その先には、なにが見えますか?(笑)
 

ギターは奥が深いです。それを考えてると、禅問答になってきます(笑)。いや、なんでもそうなんだと思います。でも「ギターを弾く」−そのことに深い意味など、いりません。パッと手にとって弾きだせば、1万円のギターだろうが、100万円のギターだろうが、同じように音楽を奏でられます。私も実際に弾くときは、何も考えてません(笑)。こんなことを考えながら弾いたら、コードを忘れます(爆)。でも、いぢってる時は、考えてます。もう、考えることそのものが楽しいんでしょうね。勝手な想像ができますから。それが・・・趣味でしょう。

 

PS,たったひとつ、これだけはハッキリしていること。それは、オービルやレオが考えた「ギターの規格」。これは、ものすごくよく考えられたものです。どの部分をとっても、思いつきなどで作られたものではありません。どんな細かい部分でも、

どうして、こうなっているのか?

って考えると、ちゃんとした理由が見えてきます。そう作ることの「存在意義」が、ちゃんと説明できます。のちの人が思いつきでそれを変えたとしても、いつのまにか元に戻ります。オービルやレオが考えた「ギターの規格」は、計算されつくした結果を元にしています。長い経験の蓄積が、「カタチ」として実を結んでいます。そこから「次」に行くとすると・・・ちょっとやそっとのアイデアでは、とてもとても。うまくいくはずがありません。これはいままでの歴史が、証明しています。

でも「明日」を作っている人もいます。うまくいく・いかないは別として、私たちが使って評価してあげることが大切です。それは「ダメなモノ」「良いモノ」としてではなく、「ここをこうすれば・・・」「ここがこうなっていれば・・・」。それが「明日」を作る第1歩だと思います。良い・悪いの二択は簡単です。でもそれではいつまでたっても、オービルやレオには勝てません。

 

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