Column 113

パクリとカバーの歴史


     

すいませ〜〜〜〜ん(^O^)/
   
バカに付ける薬って・・・ドコで売ってますか?(笑)

    
  
新時代の業界用語(爆) 「オクシタ」って知ってます??
これ、自分が出ない音域の歌を「1オクターブ下で歌うコト」を指しています。普通に歌を歌う人=バンドの人や歌手は、こんなことはしません。歌は「自分の音域に合わせて歌うこと」が大前提。自分の音域に合っていないものを歌うことほど苦痛なことは無いし、自分らしく歌うコトもできません。
ところがこれが「カラオケ」にはあるわけです。「女性の歌を、男性が歌う」「男性の曲を、女性が歌う」「ハイトーンの人の曲を、一般人が歌う」(笑)。そうすると、「1オクターブ下で歌う」という現象が発生するわけです。これを子供達のカラオケ業界では(笑)、「オクシタで歌う」と言います。
  
誰か・・・バカに付ける薬を持ってませんか?(爆)

  

これね、「学校教育」の弊害でもあるんです。
音楽の授業で、何らかの歌を歌います。その時、音域=キーを合わせるコトって、しないですよね?。ましてや、男女共学であってもそういうことはしません。なんらかの歌を歌わせると、女性は勝手に男性の1オクターブ上で歌っています。それは自然なことなんですね。で、「合唱」があると、「パート別け」します。この2つの出来事によって・・・
  
  
歌には「キーがあること」を、うやむやにしている=子供は知らない

  
男女の声域は違うことを認識できない=子供は知らない
  
「パート別け」=「声域で別けている」ということを教えていない=子供は知らない

 
以上の理由などにより子供達は、「曲というものは、誰でも同じ条件で歌えるもの」としか思っていません。曲のキーや自分の音域・声域などというものは、まったく教わらずに世に出てしまう訳です。なので女性の歌を自分が歌えない理由が「自分がヘタ」「自分の音域が狭い」「自分は高い声が出ない」としか認識できず、結果「オクシタ」でしか歌えないんです。それが原因で「音域を広げるコツはありますか?」などという、トンチンカンなことをいい始めます。人よりは若干「歌える」と思っている私でも、女性の曲を歌うのはムリです(笑)。「キー」=「音域」がもともと違いますから。当然、無理やり歌おうとすれば、「オクシタ」になります(爆)。まあ私の場合は、「出ないハイトーン」の方に向かっちゃいますが(*^_^*)。
  
普通の音楽業界の人は、この「オクシタ」なんていう言葉は知りません。これは「子供のカラオケ業界」に限った「専門用語」です。「ヘッド・ボイス」や「ミドル・ボイス」も同じ。普通の歌手の人は知りません。ロック・ポップスの声の種類は「地声」「ファルセット」のみ。その他に特殊な「シャウト」があるだけ。いつのまにか・・・「子供用の業界用語」が、ドンドン増えてきます(笑)。
 
  
「知らないこと」=しょうがないです。知ろうとしなければ、知ることはできませんしね。どんなものでも「未経験者」「初心者」は、知らないのが当たり前です。でも「知る」「知ろうとする」その前に、「勝手に解釈」するヤツは、単なるバカです(笑)。

今回は、この「オクシタ」がこれに該当します(爆)。知ろうとする前に、勝手な解釈が一人歩きしちゃったわけです。しかも、それを疑問に思っていないという恐ろしさ\(◎o◎)/!。

バカに付ける薬って・・・ないんですかね?(爆×10000)
 
 
さて、今日の本題です。

「パクリとカバーの歴史」

「知らない」といのうは、恐ろしいものです(笑)。
この「パクリ」という言葉。良くない言葉ですねぇ〜(爆)。我々、業界人が悪いんですケド。英語圏だと、「インスパイヤ」や「リスペクト」しか無いと思うんですが、日本では「パクリ」
元々この「パクる」という言葉は、「警察が犯人を捕まえる」といういわゆる「隠語」だったんですが、それが「モノを捕る・盗む」という意味で若者=不良、あるいはその道のお方達(笑)に使われるようになったんです。それがいつの間にか芸術分野のなかで、「流用する」あるいは「マネる」という意味で「パクる」という言葉が定着しました・・・とは言っても、日本でだけですケドね。
 
昔々(笑)といっても、1950年代の話です。この世に「ポピュラー・ミュージック」というものが出現しました。この「ポピュラー」という言葉は、当然「クラシック」の反対語。「民衆・大衆の音楽」という意味で生まれました。これは後に縮められて「POPS」という言葉になります。これがなぜ50年代なのか?。そう、元々「音楽」はもっと前からあったもの。20年代30年代にもありました。それと50年代を区別するのはナゼなのかというと・・・。
  
この「ポピュラー・ミュージック」(以後POPS)の伝播に一役買ったのが、「レコード」なんです。勿論レコードそのものは1800年代に発明されていました。でもそれが一般化するのが、この1950年代なんです。ポリ塩化ビニールによるいわゆる「ビニール盤」が出てきて、はじめて「EP」「LP」−シングル盤やLP盤ができてきたんです。そしてそれによってグンと手に入れ易くなり、この「POPSという文化」が花開く結果に結びつきました。なのでPOPSのスタートは50年代。
  
そしてその頃はまだ「曲を作る」=作詞・作曲をするのは「専門家」「作家チーム」でした。曲を作る専門家がいて、なおかつ「歌を歌う人」=「シンガー」が存在するのが普通。そのカタチが「当たり前」だったんです。なので作家チームは、曲を作ってから「誰に歌わせるか」を決めていました。
  
ところがその時代−「英国VS米国」の二大巨頭になりますが−英国でヒットした曲は、米国では「米国の歌手」が歌い、米国でヒットした曲は、英国では「英国の歌手」が歌うのが当たり前の時代だったんです。けして英国の歌手が米国でヒットしたり、米国の歌手が英国でヒットしたりすることはありませんでした。なので「楽曲」に対して英国と米国では、「別な歌手」が歌っていたんです。つまり「楽曲」はあくまでも「作った人のモノ」であって、誰が歌ってもよかった時代なんですね。これが日本ではバラバラに入ってきたため、英国や米国とのズレを生むことになったんですが、「どちらも入ってくる」という好条件でもあったわけです。
  
誰かが「楽曲」を作ります。この「楽曲」という言葉は、日本の業界用語です。普通に曲の話をするときは「曲=メロディー」を指します。なので単に「曲」と言ってしまうと=メロディーになってしまうため、「詞を含めた曲全体」を指す言葉として「楽曲」と言います。
この「楽曲」は、ほんとうは誰が歌ってもいいんです。というより今のスタイルのように、最初から「この人が歌う」って決めないほうが、私はいいと思います。なぜって、その楽曲のベストを引き出すのが誰なのかは、実際に歌って貰わないとわかりません。なのでこの50年代〜60年代にかけて、1つの楽曲に対し複数の歌手が歌うことを、「カバー」とは表現しませんでした。日本語で言う「競作」が当たり前の時代だったんです。1つの楽曲を、複数の歌手が歌っているのは、しごく当たり前の時代だったんです。
  
そしてこのPOPSから「ロックンロール」(以後ロック)が生まれました。ブルースをベースに、カントリーの陽気さを持った、ものすごく単純化された曲。ギターが好きな人ならわかりますよね。いわゆる「3コード」の曲です。そしてPOPSもロックも、この時代は「パクリ」なんて当たり前だったんです。
  
誰かが新しい曲を作ります。そうすると「それに似た曲」が沢山生まれてきます。これは「歌手そのもの」にも言えることで、「あるスタイルを持った歌手」が生まれると、それのソックリさんや亜流が沢山出てきました。そして「そのこと」について、誰も悪く言う人はいません。なぜなら、その「似た曲」「似た歌手」の中で、「一番売れた人」が勝者であるからです。その「似た曲」の中で、一番大衆に受け入れられ、一番完成したものを作った人が「勝ち」だから。誰しもがそれを当然のコトと思っていたし、それが結果的に「POPS」「ロック」を、飛躍的に向上させました。そしてそれが崩れたのが、1970年代。「シンガー・ソングライター」が登場することにより、その体制が崩れました。そして私が「最悪である」と思っている「オリジナル・ソング」=「オリジナル」という言葉が定着することになったんです。
  
  
1970年代にいわゆる「シンガー・ソングライター」が登場します。それまで「作家チーム」が作っていた楽曲を、「自分で作って、自分で演奏し、自分で歌う人」の登場です。実際にはもっと前からいたんですが、世の中の人がそのスタイルを認識するのが、この70年代です。そしてこれを「オリジナル・ソング」と呼び始めました。ところが・・・

 
この人達の言っていた「オリジナル」とは、「作家チームが作ったのではなく、自分が作った楽曲」という意味。これが日本には間違った意味で伝わってしまい「自分の独自性を持った楽曲」「自分のためだけに作った曲」という意味に伝わってしまったわけです。いくら「シンガー・ソングライター」であっても、昔からあった曲をまったく否定して曲など作れないことは知っています。とくに「シンガー・ソングライター」の代表格の1人である「キャロル・キング」などは、それまでのやり方=作家チームの作った楽曲で、散々ヒットを飛ばしてきた人。そんな中でも「自分でも曲を作りたい」と思ってやったのが、この「シンガー・ソングライター」のスタートです。
  
なので今で言う「オールディーズ」の曲を代表格にしているのは、「その楽曲を最もヒットさせた人」であり、「最も大衆に受け入れられた人」なんです。同じ曲を歌ってる人は、何人もいたりします。またエルビス・プレスリーの亜種として出てきて、その後ちゃんと一本立ちしている人もいます。日本や英国で「大ヒット歌手」として認識されていても、米国ではまったくと言ってほど無名に近い人もいます。「出来上がった楽曲」をヒットさせるのは誰でもよかったし、結果「ヒットさせた人」の代表曲になるだけ。それが・・・どんどん違う意味で捉えられ、今では日本の子供達はパクリパクリと騒ぐバカに育ってしまったわけです。
  
昔々(笑)、「カバー」という言葉はありませんでした。誰の楽曲を誰が歌ってもよかった時代ですから、当然今のような「カバー」などという概念は必要なかったんです。唯一あった「カバー」は、「既にリリース・発表されている楽曲の中で、ヒットはしなかったけれども良い楽曲を発掘する」という意味合いが強かったんです。これの代表が「カーペンターズ」「スリー・ドッグ・ナイト」であり「リンダ・ロンシュタッド」=いわゆる「歌うコトのスペシャリスト」が行っていたんですね。彼らはこの俗にいう「オリジナル」を持ちません。

 

「カーペンターズ」「スリー・ドッグ・ナイト」は代表曲がいずれも「ポール・ウィルアムス」の曲。リンダちゃんは「リンダちゃんがカバーすると、オリジナルが再浮上し、その人が売れる」という類稀なる才能を持ったシンガー。プレスリーにしても、「カバーしてる」なんていう意識はまったくなくて、単に「自分に合った曲を選曲する」という考え方だけなんです。この「カバー」という言葉も一般的になるのは、シンガー・ソングライターによる「オリジナルという概念の反対語」として広まっただけなんですね。他の人の曲も、自分の範囲としてカバーするってことです。
  

  
ものすごく駆け足ですけど(笑)

「POPS・ロックの成り立ち」を判っていただけますでしょうか?(爆)

 

「パクリ」ということであれば、ロックンロールなど皆パクリです。ビル・ヘイリー&コメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が「オリジナル」だとすれば、それ以外の楽曲はすべて「パクリ」ということになります。
またビートルズですら、最初はただの「ロックンロール・バンド」でした。いろんな人の曲を演ってますよね。でも本人たちには「カバー」などという意識はまったくなかったんです。「自分たちに合った、自分たちが演りたい楽曲」でデビューしただけ。「カバー・アルバム」などと呼ばれることは、絶対にありません。ローリング・ストーンもブルースのカバーであり、パクリです。でも、誰もそんなことは言いませんよね。
  
ギターのフレーズ1つにとってもそうです。オリジナル??(笑)。君の弾いてるフレーズに、オリジナリティーなどありませんよね。「今まで聴いてきた・自分が覚えてきたフレーズの羅列」です。それを順列組み合わせしてるだけ。私自身も「これだけは、世界中で誰も弾いてない!」って自信を持って言えるフレーズは、10個にも満たないです。それ以外のほとんどフレーズは、「自分が聴いて育ってきた中で、自分が弾きたいと思ったフレーズの羅列」です。うがった言い方をすれば、それが弾きたい・弾いてみたいがためにギターをやっているといっても過言ではありません。
  
楽曲を作る時もそうです。私の楽曲の大半は「曲のテーマそのもの」がパクリ。細かいメロディや歌詞はどうでもいいというか(笑)、割とパクっていません(爆)。曲のコンセプトそのものが、イーグルスやドゥービーと「同じレベルでものを考えたい」という発想です。でも「この曲の、この部分がカッコイイので、ちょっといただき!!」っていうのは日常茶飯事。というか「アレンジ」っていうのは、「そのパクリの知識の積み重ね」でしかできません。「ドラムが8ビートを叩くなら、ベースはこう」っていうのは、今まで覚えてきたパターンからしか作れません。これを「パクリ」というなら、4ビート・8ビート・16ビート使うこと自体が「パクリそのもの」です。
  
また、去年の年末。私の大好きなK−POPグループの「クレヨン・ポップ」(笑)の曲が、「ルパン三世のテーマ」に似ていて「パクリだ!」と騒がれました。まあもともと「クレヨン・ポップ」のコンセプト自体が「モモクロのパクリ」なんで、叩かれるのはしょうがないんですが(笑)。
ただ、この「ルパン三世のテーマに似ている」のは、イントロの「アレンジ」だけで、歌中のメロディもまったく関係ないし、ましてや「クレヨン・ポップ」のメンバーが作った曲でもありません。ただ単に「イントロの一部分のアレンジ」が、「ルパン三世」に似ているだけ・・・っていうか、確信犯でやったものに、バカがひっかかっただけという、とても情けないものです。
  
「パクリ」を「パクリだ!」と騒ぐには、「元曲」を見つけないといけません。一般的にこの「パクリ」を「見つけられてもいいと思ってる人」って、割と隠そうとしません。私もどちらかといえば、「何からパクったか?」を知ってもらいたいクチです(笑)。某Bさん達も、メロそのものは単なるJ−POPでアレンジがツェッペリンなんて、平気で演ってます。誰にでもわかり易く、パクってます。それをいちいち「パクリだ!」「パクリだ!」って騒ぐバカは・・・私から見ると、もっともわかりやすいバカ(爆)。
  

 
自分たちの知らない曲は「パクリだ!」とは言えませんね。当然ですよね。元曲を知らないんですから。でも・・・私はそういう人達より、はるかに多くの曲を知っています。まともに流れてる曲が、「あれ??あの曲のあの部分??」って気が付く確立が高いです。私はそれをイチイチ「パクリだ!」とは騒ぎません。どちらかと言えば「うまく使ってるなぁ〜」のほうが多いです。「なるほど、そういう使い方があるんだぁ〜」「そういう解釈があったのかぁ〜」っていうカンジですね。私の中では1950年代より、「先の人が作ったなにか」を、どんどん使いまわしていくことは当たり前だし、できればそれより「もっとウマく使いたい」わけです。

だけど子供達の中では、「自分が気付かなければ、それはオリジナル」。「似てると思われる曲があれば、それはパクリ」。この図式しかありません。バカに付ける薬って・・・ないんですかね?(爆×10000)
  
  
「盗作」は、いけません(笑)。パクリと呼ぶには、あまりにもひどい似方をしているモノ。それが「意識せずに出てきたモノ」である場合があります。「何かに似てるような気もするんだけど・・・まあ、いいや!」(爆)って、発表してしまうケースです。でも著作権上、あまりにも似すぎているモノは、盗作として罰せられます。有名なのは、八神純子ちゃんの「パープル・タウン」。これはイントロ全体が、レイ・ケネディそのもの。訴えられて、それを認めました。逆に最後まで認めなかったのが服部克久さんの「記念樹」。小林亜星さんの「どこまでも行こう」の盗作と訴えられ、最後の最後まで争って負けました。八神純子ちゃんのほうは、パクリというにはあまりにも酷い似方で、ほとんど同じです。バレないだろうとタカを括ってリリースしたのが丸見え。これはどう考えても、盗作と言われてもしょうがないです。

 
ところが服部克久さんのほうは、たしかに細部まで見ていくと盗作としか言えないんですが、私からすると、これは別物に思えます。どちらかと言えば「唱歌」などから発生したメロディの作りで、それがたまたま意識せず、「どこまでも行こう」の流れに乗ってしまった、というカンジです。パクるつもりなら、もっとひねりを入れてたはず。これが自然に出てきたのは、「どこまでも行こう」ができてきた経路と、たまたま同じ道を歩んでしまっただけのような気がします。ただし、裁判で白黒決着はついたので、盗作は盗作。「記念樹」は、まったく封印されてしまいました。『あっぱれさんま大先生』の曲として大勢の子供たちに親しまれ、思い出のしみ込んだ曲だけに、残念としかいえません。以来、「記念樹」をここまで追い詰めた小林亜星さんが、大っ嫌いになりました(笑)。
  
ロックンロールは、みんなパクリです。ブルースも、みんなパクリ。カントリーだって、みんなパクリ。私はよく「様式美」という言い方をしますが、まあ、一つの「音楽スタイル」です。3コードで曲を作れば、みんなロックンロールやブルースに似てきます。カントリーのブンチャカ・ブンチャカが無ければ、それはカントリーとして淋しいです。事実、カントリーには、よく似た曲が多数存在します。それは、今現在でも同じ。極端な話、作った本人が、自分のヒット曲によく似た曲を作ったりすることまであります。ロックンロールが、ブルースが、カントリーがパクリだっていう話・・・どこかで聞いたこと、あります?(笑)。
 

  
「パクリ」−この言葉の印象や音の響きが悪いんですね(笑)。悪いにおいがプンプンします(爆)。その「ワルそうな匂い」が、子供を引き付けるんでしょうね。自分が正しいことを言っているという「上から目線」には、調度いい言葉なんです。「口パク」も同じなんですけどね。音楽の、POPSの、ロックの歴史も知らず、ただ騒いでるバカ(笑)。
  
それでもそれが「正当なカタチ」で進んでくると、パクリとは言われないことがあります。日本ではザ・ピーナッツが歌った「情熱の花」。これは元々、ドイツのカテリーナ・ヴァレンテという人が歌った楽曲で、原曲はベートーベンの「エリーゼのために」。これを日本では、宮川泰さんが見事なアレンジで蘇らせました。そしてこの曲はのちに、ヴィーナスの「キッスは目にして」で再びヒットします。「エリーゼのために」と「情熱の花」を聴き比べると、原曲を流用したというより、完全な「パクリ」の法則です。そして「パクリ」であると同時に「カバー」であるとも言えます。「キッスは目にして」は「情熱の花」のカバーとも言えますが、「キッスは目にして」としての独自性が光っています。パクリであり、カバーであっても、「エリーゼのために」「情熱の花」「キッスは目にして」は、それぞれに名曲であると言えます。「情熱の花」も「キッスは目にして」も、パクリともカバーとも言われません。実は、楽曲がちゃんとした「完成度」を持っていれば、そんなのどうでもいいことなんですね。
  
1957 Great Balls of Fire by Jerry Lee Lewis
  
1958 Splish Splash by Bobby Darin
  
誰が聴いたって・・・同じ曲でしょ?(笑)

でも、どちらもロックンロールの名曲であり、大ヒット曲。

パクられなかったら、生まれなかった曲なんですね。
    
「カバー」もそうなんです。

「オリジナル」っていう言葉に引き摺られて・・・ひょっとしたら・・・

 

「作った本人が歌うのが一番良い」と、思い込んでいませんか?
  

  
George Benson - This Masquerade
   
Carpenters - This Masquerade
   
Leon Russell - This Masquerade
  
  
この「マスカレード」という曲は、「レオン・ラッセル」の作った曲。でも「ジョージ・ベンソン」と「カーペンターズ」の名演・名唱がなかったら、ひょっとして埋もれてしまったかもしれない曲。「A Song For You」もレオンの名曲。これも世に広めたのはカーペンターズ。

本来「カバー」というのは、そういうレベルのモノを指していました。
  
だからと言って、今日本で流行ってる「カバー・アルバム」を否定するつもりはありません。

私は「良い曲」をいろいろな人が歌うのは大賛成。

 

その曲を作った人や、最初に歌った人が、必ずしもベストだとは思ってませんので。
     

   
夏の終わりのハーモニー - 井上陽水&玉置浩二
  
夏の終わりのハーモニー - 中村あゆみ
    
この曲は「井上陽水&玉置浩二」コンビ以上のモノは無いと思っていましたが、あゆみねえさんの解釈でも、名曲になり得る曲です。いくら物まねで歌がうまいと言われているコロッケでも、この曲はムリ(笑)
   
夏の終わりのハーモニー - 中村あゆみ&コロッケ
     
「カバー」というのは、そういう楽しみ方があるんです。「ヘタなオリジナル歌手」より、「歌うことのスペシャリスト」が歌ってくれたほうが、その曲のベスト引き出してくれるんです。

ちなみに・・・コロッケ程度の歌唱力・音楽知識では、このあゆみねえさんにハモりを付けるのはムリです(笑)。女性のリード・ボーカルに男性がハモるのは、相当慣れてる人じゃないとできません。井上陽水&玉置浩二コンビとは、違うハモを考えなくちゃいけませんので。
   
   
今日も私のグチに付き合ってくれてありがとう(^O^)/。
音楽っていうのは、過去の資産の積み重ねがあって初めて成り立っています。それを無視したところで、名曲は作られてはきません。意識的にパクらなくても、自分の中から出てくるのは、過去に聴いた曲が生み出してくれたものです。私の言い分としては「パクるぐらい好き」っていうことです。まあそれでも「パクリ」「パクリ」と騒ぐなら、それも結構。ただし私には、自分のバカさ加減を宣伝しているようにしか見えません(笑)。

 

みんな・・・もう少し、音楽を知ったほうがいいです(*^_^*)
    
  
  
これを・・・

 
The Supremes - You Can't Hurry Love
  
こうしてくれたおかげで・・・

 
Phil Collins - You Can't Hurry Love
 
これが生まれて・・・

  
Daryl Hall & John Oates - Maneate
 
こうなったワケです(笑)

  
Stevie Wonder - Part Time Lover
  

  
パクらなきゃ・・・生まれてこなかった名曲たちです。
      

←BACK

inserted by FC2 system